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三河の住人の庵

三河の住人の庵

寛政重修諸家譜 大久保忠佐

大久保忠佐(ただすけ)

(忠員次男、兄は忠世、弟に彦左衛門忠教)

彌八郎 治右衛門 剃髮號道喜 母は上におなじ。

天文六(1537)年生る。弘治元年蟹江のたゝかひに、父兄親族等七人ともに鎗をまじへ、功をあらはす。二年織田家の軍將柴田権六勝家兵を率ゐて三河國福谷の砦をせむ。 忠佐等ふせぎたゝかふが故に、勝家敗走す。阿倍忠政勝家を射る。忠佐馬をはせて敵中に入、其馬をつく。勝家わづかに死を免かれて引退く。永禄三年尾張國石瀬三河國刈屋の合戦にも、鎗をまじへ敵をうちとる。六年本願寺の門徒等一揆のとき、日々夜々のたゝかひに衆兵の面前にをいて、賊徒と鎗を接すること三度、衆みな其武勇を感ず。其餘この役に敵を討事 しばしばなりといへども、味方もまた創をかうぶるもの おほし。忠佐親族等とゝもに東照宮 につかへたてま つりて、一揆等歸順のはかりごとを めぐらす。七年東三河御油合戦に忠佐衆兵を指揮し、鎗をとってよこし まに敵をうちてこれを敗走せしむ。 十二年掛川城 をせめられ、天王山の 合戦に忠佐一番にすゝみて敵陣にいり、近松丹波某が首を斬てたてまつ る。元亀元年姉川の戦に忠佐鈞命 を うけ、軍勢を指揮して敵をやぶり、三年見付の役に大敵きそひ來る。忠佐 をよび 弟勘七郎某、同族荒之助忠直、都筑藤一郎某とゝもに殿となりて血戦す。ときに本多忠勝、大久保忠世馬をはせて敵陣をわけ來る。故に衆皆命を全うして 天龍にいたる。十二月三方原の戦に敵兵勝にのるといへど も奮戦して首級を得たり。天正三年 長篠に軍を出したまふのとき、仰によりて兄忠世と列して 兩手に わか れ、靡下の鉄炮をつかさどり、かは るがわるこれを發して大に勝頼が軍を
破る。このとき織田右府忠佐が進退衆にすぐれたるを見て、髯多き武者は誰なるやととはしむ。三河の士大久保治右衛門忠佐といふものなりとこたふ。右府其勇武を歎美す。のち東照宮右府の軍に會し たまふごとに、長篠の髯はしたがひ たてまつるやいなやとゝはる。このとし諏訪原の合戦のとき、卯の時より辰のときにいたって、甲士二人をうちてその 首級をたてまつる。十二年 長久手の 御陣に忠佐物見をうけたまはりて、 先陣にすゝみ、敵をうつ。ときに池 田勝入、森長一すゝみ來る。忠佐先手より足軽をいだし、鉄炮を發ち挑み たゝかふ。敵ついに敗走す。軍やみてのち忠世渡邊忠右衛門守綱とゝもに おほせをうけたまはり、職場にをいて諸士の甲乙 をはかる。十八年八月 關東御入國のとき、上總茂原にをいて五千石をたまひ、慶長五年 台德院殿上杉景勝御征伐として 下野國宇都宮にいたらせたまひ、御旗をかへされ上田に御發向のときしたがひたてまつる。六年茂原をあらためて駿河國沼津城をたまひ、二萬石を領す。 のち病によりてこふて剃髪し道喜と號す。かつて忠佐東照宮御幼稚のはじめより、御靡下にありて 軍を出したまふごとに供奉し、あるひは敵を 討、或は鎗を接ることあけてかぞふべからず。白刃矢石の間に馳走して着するところの武具しばしば斬破らるゝといへども、終に創を被らず。十八年九月十七日卒す。年七十七。日諦源億?院と號す。沼津の 妙海寺に葬 る。これよりさきに嫡子忠兼忠佐にさきだちて卒し、 嗣なきにより弟彦 左衛門忠教を養ひ家つがしめむことを議す。忠教 がいはく、他の功をもつて取たる知行何かせむとて肯かはず。故に嗣なくして家たゆ。


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